読売新聞「道あり」に糀屋本店 浅利妙峰が紹介されました②

2025年6月3日(火)から『読売新聞』の連載「道あり」8回シリーズに、こうじ屋ウーマン 浅利妙峰が取り上げられています。こちら6/4掲載の2回目の記事です。こうじ屋ウーマンのバックグラウンドがわかる内容、ぜひご覧ください✨

🔗読売新聞オンラインにも掲載されています。
▶6/4掲載 ②ガールスカウト「やくそくとおきて」が人生に大きな影響…「誰かを助け、それが自分のエネルギーになる」

ガールスカウト心の支え

 1952年6月、大分県佐伯市の「糀屋本店」8代目の父・幸一さん、母・和子さんの2人姉妹の長女として生まれた。旧ソ連によるシベリア抑留から生還した元陸軍軍人の父から跡継ぎとして期待され、幼い頃から「常にたくましくあれ」「男にまけるな」と厳しく育てられた。 

 活発な性格で、小学校の休み時間はグラウンドを駆け回った。3年生になると、友人から仲間外れにされたことをきっかけに、居場所を求めて中学生の親戚が所属する陸上部の練習に参加。体力差のある中学生に交じって筋力アップに励むと、運動会のリレー競争で上位入賞できるようになった。閉会式では1等賞などに贈られるリボンが自身の体操着にいくつも付いていた。

 5年生の頃に入団したガールスカウトの「やくそくとおきて」は、その後の人生に大きな影響を与えた。

 「いつも他の人々を助け、ガールスカウトのおきてを守るようにいたします」「すべての人々の友達であり、他のガールスカウトのとは互いに姉妹であります」。

毎日、ノートに書いて覚え、今でもそらんじられる。「自分が誰かを助け、それが自分のエネルギーになる。国や人種の隔たりなく、こうじの力で、おなかの中から元気にして幸せにする。今の自分に通じている」と語る。

 中学で始めたバスケットボールは、大分県立佐伯鶴城高でも続け、1年生から主力で活躍した。バスケ部の監督から「人を束ねることはいい経験になるから」と強く勧められ、2年生の時に主将に。勝利を追求する自分に対し、副主将は勝敗よりも過程を重視した。「今なら『どっちも大事よね』で済むような話」だが、当時は言い合いになることも。「考えが合わなくても、話し合えば絆が生まれることを学んだ」と懐かしむ。

 卒業後は、すぐに家業に入ることを求めた父親と「2年で地元に戻る」と約束し、東京富士短大(現・東京富士大)に入学。経営者の素養を身につけようと会計学や経営心理学を学んだ。講義の一環で約20日間、ヨーロッパ各国を巡ったり、休日に国内各地を旅行したりもした。夢のような2年間を終え、父親との約束通り、20歳で帰郷した。