大分合同新聞 灯にて掲載 11月25日(金)

2022年11月25日(金)大分合同新聞「灯」にて『初代佐伯藩主 毛利高政公』と題した こうじ屋ウーマン 浅利妙峰のコラムが掲載されました。

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 11月16日は、佐伯藩の初代藩主、毛利高政公の祥月命日。慶長10(1605)年、鶴屋城の創建や城下の町づくりと時を同じくして、毛利家の菩提寺として開かれた養賢寺は、城山からJR佐伯駅方面に向かう武家屋敷通りにあり、その裏山に歴代藩主の墓碑が祭られている。

 天正10(1582)年、備中高松城の戦いにあった秀吉は、織田信長が本能寺で明智光秀によって死に追いやられたことを知ると、直ちに毛利家と講和を成立させ、主君のあだを討つべく、全軍を率いて京都へ向かった。いわゆる「中国大返し」である。

 講和に際し、人質として秀吉側から毛利方へ送り出された一人が高政(当時の通称は森勘八郎)であった。高政は毛利輝元に気に入られ、「我名字を授け、永く兄弟の契りを結ばん」と輝元に言わしめたと伝わる。毛利氏が秀吉の臣下になった際に秀吉の許しを得て、森から毛利へ改名した。

 関ケ原の戦いでは西軍に属して戦ったが、その後、東軍に投降。藤堂高虎のとりなしで改易を免れ、慶長6(1601)年、日田より佐伯に転封された。

 以降、明治の廃藩置県においても佐伯は所領が大きく変わらず、400年以上が過ぎた。わがご先祖も佐伯藩の船頭衆の頭として勤め、鎖国令の後は、こうじ屋として生業を始めて今がある。

(こうじ屋ウーマン・佐伯市)